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浅野健一さんとコトパンジャン・ダム問題の紹介

 1990年代初頭、浅野健一さんは共同通信ジャカルタ支局長時代に日本のODA(政府開発援助)によってスマトラ島中部につくられようとしていたコトパンジャン・ダムに対する現地住民の反対運動を最初に日本に報道、そのことがスハルト独裁政権の逆鱗に触れ国外退去処分となりました。

 コトパンジャン・ダムを巡っては、現地住民が住民合意が取れていない、深刻な環境破壊を引き起こすとしてジャカルタの日本大使館に中止要請の陳情に行った際に、なんと交渉現場の大使館内にインドネシア側治安関係者(秘密警察)を同席させて書記官が会談を行うという、信じられないような事態が生じました。そして、日本大使はこの件についてマスコミ関係者に緘口令をしくなど事件のもみ消しに躍起となりました。この事件に限らず、浅野さんは東ティモールの問題など、日本がいかにスハルト独裁政権の人権侵害に加担してきたのか、ODAがいかに現地に腐敗と癒着を蔓延させてきたのか、つぶさに目撃する中で、その実態を覆い隠し権力の言いなりになる日本のマスコミ報道を一貫して批判してきました(これはインドネシア報道に限らず国内の犯罪報道や今回の戦争報道などについても一貫しています)。

 コトパンジャン・ダム問題は、現在、現地住民8500名がダム撤去を求めて日本政府を訴えるという史上初めてのODA裁判へと発展、世界的な注目を集めつつあります。今回の講演会では、浅野さん自身の体験をもとに、日本政府によるインドネシアでの人権侵害への加担の実態(現在、紛争中のアチェでは日本のODAによってつくられた施設内に国軍による反政府勢力の収容キャンプが設置され拷問が行われるなど)や、現地での腐敗と環境破壊を生み出し続けている日本のODAの実態、そしてそうした実態を大使館や政府の言いなりになって覆い隠す役割を果たしている日本のマスコミ報道の腐敗ぶりを明らかにしたいと考えています。

 そして、こうした日本−インドネシアの長年にわたる癒着関係(これはフィリピンやその他アジア諸国との関係でも同じ)や日本のODAのあり方を根本から問い直すコトパンジャン・ダムODA裁判の意義を参加者全員で確認できたらと考えております。

 また、浅野健一さんは今年6月初めまでの昨年1年間、ロンドンを中心とする世界各国を飛び回って諸国のマスコミ事情など在外研究活動に従事してきました。その間に、高名な米の言語学者であり反戦活動家でもあるチョムスキーと対談、それをまとめた本『抗う勇気』(内容はインドネシア・東ティモールやアフガン・イラク戦争における日米の人権侵害の実態の告発など)を出版したり、ロンドンでは実際に反戦デモへ参加、そして今回のイラク侵略戦争やアチェ紛争(インドネシア国軍による人権侵害)などについての各国マスメディアの報道姿勢の比較(米CNNによる戦争プロパガンダの実態解明)など調査研究してこられました。世界各国を巡って実際に目にしてきた戦争報道の実態についても語っていただきます。ご期待ください。

浅野健一(あさの・けんいち)さんの経歴

1948年7月27日、香川県高松市生まれ。
66ー67年AFS国際奨学生として米ミズーリ州スプリングフィールド市立高校へ留学。
72年、慶応義塾大学経済学部卒業、共同通信社入社。編集局社会部、千葉支局、ラジオ・テレビ局企画部、編集局外信部を経て、89年2月から92年7月までジャカルタ支局長。帰国後、外信部デスク。
77ー78年、共同通信労組関東支部委員長。
94年3月末、共同通信退社。
93ー95年慶応義塾大学新聞研究所(現在メディア・コミュニケーション研究所)非常勤講師。
94年4月から同志社大学文学部社会学科教授(新聞学専攻)、同大学大学院文学研究科新聞学専攻博士課程教授。
96年12月から97年12月まで、同志社大学教職員組合委員長。
99年3月から10月まで、厚生省公衆衛生審議会疾病部会臓器移植専門委員会委員。
 
共同通信社社友会準会員。
人権と報道・連絡会(連絡先:〒168-8691 東京杉並南郵便局私書箱23号、ファクス03ー3341ー9515)世話人。
日本マス・コミュニケ−ション学会、日本平和学会会員。
(2001年3月22日現在)

これまでの仕事

 22年間の共同通信記者時代に毎日平均1ー2本の記事を書き、加盟・契約関係のある新聞・放送局が報じた。

 入社後に配属された社会部時代には中国から上野動物園に贈られてきたジャイアント・パンダ番記者を務めた。オイルショックの東京・山谷、大阪・あいりんの日雇い労働者の街をルポした連載記事を発表した。

 千葉支局では成田空港建設に関する記事や千葉二、三区で金権選挙を取材。宇野亨衆議院議員の逮捕、川上紀一知事の政治資金問題などで取材班の一員として関東総局長賞を受賞した。

 ラジオ・テレビ局企画部では、国政選挙、つくば科学博覧会などでラジオ用の録音構成番組を制作、また特派員の妻による「奥様リポート」を企画。文化放送、FM東京をはじめ全国の放送局がオンエアした。北陸放送、文化放送で出向研修を行い、放送メディアの現場を経験した。

 外信部記者と外信部デスクの期間(87年7月から94年3月)は主に東南アジア、軍縮問題を担当した。88年には、カンボジアにユニセフ(国連児童基金)のスタディツアーの一員として参加、当時日本と国交がなかったプノンペン政権の実態を取材した。プノンペン政権成立後に日本人記者として初めてカンボジアに入った。取材の成果は4回連載「再生めざすカンボジア」(88年3月24日から27日までの信濃毎日新聞などに掲載)、ニュース特集「女たちの国カンボジア」(88年4月26日の南日本新聞などに掲載)として配信。

 88年8月30日、ビルマで民主化運動のリーダーに推されつつあったアウンサンスウーチーさんに、国際電話でインタビューした。彼女に記者がまとまったインタビューをしたのは初めてで、彼女が生涯をかけて祖国の民主主義実現に努力すると表明した。日本経済新聞が外信面トップで掲載するなどほとんどの新聞が報道、共同通信の英字配信のKWSでも流れ、外国通信社も転電した。

 89年2月からジャカルタ支局長となり、92年7月までインドネシアを取材した。記事はKWSでも配信され、コーネル大学、アムネスティインタナショナルなどのインドネシア研究者の間でも、ジャカルタ発の共同通信電は注目された。

 インドネシアはフランスとともにカンボジア紛争解決のためのジャカルタ非公式会合の共同議長国で、カンボジア問題をパリ和平合意まで取材した。92年5月にはカンボジア現地で一カ月取材、プル・ポト派の内戦再開を取材した。

 89年12月にイリアンジャヤ州の熱帯雨林で日本の商社が出資した木材会社がマングローブを違法伐採していることを調査報道した。商社は非を認めインドネシア政府も一時営業停止などの処分を決めた。

 89年10月と91年11月に独立運動が続く東ティモールを取材して、連載記事を書いた。89年10月10日、ノーベル平和賞を後に受賞したカトリック教会のベロ司教に日本人記者として初めてインタビュー(10月12日の中国新聞など)した。91年11月12日にディリで起きたインドネシア軍による無差別発砲事件では、現地に入り報道した。日本政府はインドネシア政府に対して、真相解明と責任者の処罰を要求したことを詳しく報道した。

 スマトラ島のコタパンジャンダム問題で、日本政府が政府開発援助(ODA)で援助供与国に人権・環境面で初めて条件を付けたことをスクープ、91年4月14日の朝日新聞が総合面で大きく報じるなどほとんどのメディアが報じた。KWSでも配信され国際的なニュースになった。政府がここで示した援助に関するガイドラインは、後に政府によるODA大綱策定につながった。

 92年7月に帰国後は外信部のデスクとして、24時間入ってくる世界各地の特派員の原稿の処理と、外国通信社が配信する記事の取捨選択を担当した。

 ジャカルタ特派員時代の取材をもとに『出国命令 インドネシア取材1200日』(日本評論社)、『日本は世界の敵になる ODAの犯罪』(三一書房)を出版した。東南アジアにおける人権・環境問題では、土生長穂・小島延夫編『アジアの人びとを知る本1 環境破壊とたたかう人びと』(92年5月、大月書店、95ー116頁)に「問われる日本の経済協力」を発表した。

 またカンボジア取材は、『カンボジア派兵』(喜岡淳との編著、1992年、労働大学)で第2章「カンボジア紛争の歴史」と第3章「カンボジア派兵ーそのシナリオと反応」を書いた。また社会評論社が編集・発行した『派兵読本』(92年9月)に「自衛隊は現地で歓迎されたか」を書いた。

 株式会社共同通信社が発行する『世界年鑑』の87、88、92、93年版で、オーストラリア、スウェーデン、インドネシア、南太平洋諸国などを執筆した。また平凡社発行の『』の87、88、92年版で北欧、東南アジアの諸国を担当した。


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